唐ゼミ☆について
唐ゼミについて (中野敦之)
ちょっと聞いただけでは、非常にその実態をつかみにくい集団であると思う。よってここに一文を添えたい。後ろにくっついている「ゼミ」というのは横浜国立大学のゼミナール、「唐」は担当教官の苗字で、もちろん唐十郎のことである。「唐ゼミ」という言葉自体は、唐さんご自身も覚えておられることと思う。ただその実態というと、教官自身いまだにかなりあやしい。
一体、教職に就かれてから六年目の今日、彼は「ゼミナール」とは何か、それに絡んで取得される「単位」とは何か、気付いておられるだろうか? それどころか彼は「大学教授」という立場そのものに対して、今尚あまりにも無頓着な節が多々見られる。いよいよあやしい。
三年前、誰彼の意志に関係なく、制度的な理由のみによって「唐ゼミ」がスタートしたとき、我々生徒たちは一瞬にして上に記した疑問に到達した。当時、お互いに何をしてよいのかわからず、手さぐりの時期が続いた。演劇以外に関して全く不慣れな唐さんにあっては、かなり悩まれたことと思う。他のゼミを模倣するように、シェイクスピアやギリシャ悲劇がとりあげられたことも記憶するが、あくまで唐十郎というフィルターを介して、ただひたすら放埓な物語へと書き換えられていったそれである。とにかく90分の間、全く対話ができないのである。一方で相手は唐十郎、圧倒的な他者に出会いながら、その魅力に薄々気付かないわけにはいかなかった。前半半年間は殊にはがゆい思いをした。
結局、我々は研究室内にささやかな舞台を作ってもらい、そこでの稽古を通して唐さんとの会話の共通項を探ることにした。唐十郎と演劇とはおそらく必要十分の関係である、為に一番単純な方法を選んだのだ。また、本番を想定しない稽古はありえないので、三十人も入れば満員の公演がその後に付け加えられた。台本は唐作品の中から、背伸びして背伸びして選ばせてもらった。
以上、我々が「ゼミ」という名前を冠しながら演劇の実践に至った経緯である。
以来、幾らかの作品がまがりなりにも実際に上演された。その過程で唐さんご自身の劇団、唐組の皆さんには大変なご助力を頂きながら、とにかく一回目、唐さん自身の処女作「24時53分塔の下行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」に始まり、「腰巻お仙、義理人情いろはにほへと編」「ジョン・シルバー」と初期作品に続き、第四回には近作「動物園が消える日」が上演されたところで現在にいたっている。その間、公演のハードにあたる、いわゆる小屋の様子も変化した。第三回からぼくたちは室内での上演を止め、唐さんの好意に甘えて初期の紅テントをお借りし、大学内、実験に使われた化学薬品の埋められている丘の横での野外公演を始めた。何しろ初期のころのものである、初めてこれをたてた日、この中を闊歩していた伝説的な俳優たちを思って興奮すると同時に、一方で大変恐縮もした。もっとも数日後の豪雨は簡単にぼくらを追いつめ、すぐにこれらの感慨を吹き飛ばしてしまったが。
舞台に立つ劇団員、では無くて「ゼミ生」や客席にも変化が生じた。
新入生が入ると僕らは早速、「特権的肉体」の狩猟を始める。ここに三年次からという「ゼミ」のルールは早くも崩壊した。現在では他学部からの参加者も含め、その数30?40くらいであろうか。積極的曖昧さを良しとする私にとって正確なそれはどうでもよい。主要なメンバーを軸として周縁を幾らかの層が取り巻いている状況に対して、近々分裂の危機を迎えるかもしれないと唐さんは歓んでいる。
客席に関しては背筋が凍る思いがする。当初観客は唐教授の授業を履修する学生たちだったが、ある日、怪優大久保鷹と緑魔子が現れぼくらを恐怖のどん底に叩き込んだ。その後、唐組の方々はじめ劇団新宿梁山泊の面々、また花園神社等でお見かけする唐さんの熱烈なファンの方々も少しずつお越しいただいている。我々にとっては最も手厳しい試験官である。一般学生のレポート提出日といったところか。
最後に唐さん自身の一言を添えたい。
ある日のゼミ中、研究室で大声を出していた我々に、隣の部屋で授業をしていた教官が怒鳴り込んだ。
「お前ら、なに遊んでんだ!」
そこには唐さん本人もいた。気まずい沈黙の後事態は事なきを得たが、さすがは唐十郎、後に学生たちのためのゼミ紹介の席でこの言葉を引用した。
「授業をしているのか、遊んでいるのか、それがいまだにわからない。」
そろそろ校外授業を、街での夜遊びを教えていただきたい。
2005年4月8日
